いったい何やってんだ、オレは
とも思うのである。
tomosでじぶんの言葉を綴ってみようと思い、折りたたみ型モバイルキーボードを探した。US配列キーボードのファームウェアを書き換えツールを自作することで決着したことはすでに書いた。
そのあとも、レースゲーム用にダイレクトドライブ式のハンドルコントローラを求め、SteamOSで公開前のドライバをコンパイルして使えるように設定した。
さらには、ガンシューティング用に拳銃の形をしたマウスを用意するに至ってしまった。
もとよりガジェット好き、設定好きではあるが、明らかにやり過ぎだ。しかし心が求めているなら、不可避なのである。
分人主義という発見
自分の中で何が起きているのかを説明できるかもしれない理屈として、最近、平野啓一郎さんが提唱している「分人主義」というアイディアを聞いた。
正確な定義は公式サイトを読んでいただくとして、ざっくり言うと、確立した「個人」を想定するのでなく、他との関係のなかにある「分人」の集合体として自分を捉えたほうが良いのでは、という提案である。
これを他人との関係にとどめず、モノとの関係に拡張すれば、ぼくのやむなき衝動はだいぶ説明できるのではないか、という仮説を思いついた。
仮説にもとづく自己分析
キーボードを愛好するのは、1日のかなり長い時間キーボードに触れているから。平均時間を測ったことはないが、直感的には平均で4〜5時間触れている人生の20%、起きてる時間の30%近くになる。
この時間を良いものにするためには、心地よいキーボードが欠かせない。主力キーボードはAtreusという42キーで、2年ぐらいこれ一筋。
モバイルキーボードは、このAI時代、言葉との関係を再構築するための、心地よい土台を固めたかったから、と説明できそうだ。
ハンコンは理屈抜きに気持ち良いし、拳銃型マウスも思ったより違和感がなく自然なインタフェースとして扱えた。
とくに「手で触れる世界とのインタフェース(境界)」で、ぼくは各局面で「分人」を立ち上げ、心地良さを追究し、ぼくという「総人」を豊かにしている、のではないか!
せやけど、ほんまいかな
しかしどうして、手の周りに集中しているのだろう? また、コンピュータ周りが多いのはどうしてだろう?
アナログ文具系は劇的な進化がないから? 十数年にわたって文具周りは最適化を進めてしまったから、もういいと思っているのだろうか? こちら方面の分人は固定化しつつあるのだろうか?
モノと接する境界面の心地良さを追究しているのは間違いなさそうだが、自己表現としての要素はないのだろうか? 個人の「エゴ」を満たすような選択はしていないものだろうか? Atreusを扱える自分、カッコイイ、と実は思っているのではないか? どこまでも自己確認要素が強いのだろうか?
「分人主義」のメガネをかけると、自分の「モノとの関わり」の理解が深まりそうな予感はする。どれくらい説明がつくのかはまだ未知数。
「モノを介した分人構築仮説の検証なのだよ」と、デバイス探究の大義名分だけは手に入れた気がするな。フフフ。
7分でわかる「分人主義」ムービー
